2008年02月07日
甲子園での通算本塁打13本
怪物です…。
清原 和博(きよはら かずひろ、1967年8月18日 - )は、大阪府岸和田市生まれのプロ野球選手(内野手)。オリックス・バファローズに所属。背番号は5。
西武時代
清原本人は巨人入りを熱望したが、巨人は早稲田大学進学を表明していた桑田を強行1位指名した。当の清原は南海、日本ハム、中日、近鉄、西武、阪神の6球団から1位指名を受け、抽選の結果、西武が交渉権を獲得。清原がドラフト会議直後の記者会見で、失意で涙を溜めた姿が放送された。 後に自宅で泣く清原を見て、清原の母親が「あんたが勝手に惚れて、勝手に振られたんやないの。男らしく諦めなさい。男なら見返してやりなさい。泣いてる暇なんてないはずやで!」と言い聞かせ、プロに入り巨人を見返してやるとの思いを強くした。
清原はそのまま西武に入団。背番号3が与えられた。デビュー年の1986年、開幕2戦目に守備固めで登場すると、第2打席(第1打席は四球)にはプロ初安打で初本塁打を打ち、その後も打ち続け、31本の本塁打を放って新人本塁打記録の最多タイ(高卒新人では最多)を記録し、新人王を獲得。打率.304、本塁打31、打点78はいずれも高卒新人の歴代最高記録。またこの年流行語大賞を獲った「新人類」の代表のように言われ、工藤公康、渡辺久信と表彰式に出席した。秋山幸二とのコンビは「AK砲」と呼ばれた。後にオレステス・デストラーデが加わり「AKD砲」となる。また、全盛期には『三冠王に一番近い男』と呼ばれた。また、西武入団時には当時の球団代表であった坂井保之氏から「四冠王を目指してほしい(打率・本塁打・打点+盗塁)」と期待されるほど脚も速かった。結局、清原自身は盗塁に意欲的ではなかったこともあり、その話は夢のまた夢に終わるが、それでも二桁盗塁を二度マークしている。ポジションは普段は一塁手であり、その柔らかい丁寧なグラブ捌きには定評がありゴールデングラブ賞を5度受賞している。なお年に数試合は三塁を守り、日本シリーズのセ・リーグの本拠地での試合でも、普段は指名打者のデストラーデが一塁、清原は三塁を守った。
以後、1986年から1988年まで、1990年から1994年までの8度のリーグ優勝、6度の日本一(1986年?1988年、1990年?1992年)に貢献。西武黄金時代の主砲として活躍した。日本シリーズでは一度もMVPは獲れなかったが1986年、1988年は優秀選手に、敗戦した1993年、1994年は敢闘賞に選ばれている。
(以上、ウィキペディアより引用)
やはり清原といえば西武時代ですよね!
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